未来少年コナン 宮崎駿と「飛ぶこと」

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蓮實重彦みたいなタイトルつけました…

もちろん新作製作発表タイミングというのもあるけど、僕が『未来少年コナン』を観おえたのでちょっと思ったことをまとめてみようかと。
宮崎駿が飛翔を描き続けている作家であるということは誰の目にもあきらかであり、この前まで僕自身もその飛翔について、無垢で美しい、特権的と言ってもよいものだと考えていた。しかし、『コナン』を観てその考えを改めねばならなくなったということについて、少しメモしておきたい。

僕が無垢で美しい飛翔と言って指しているのは例えば、『魔女の宅急便』や『千と千尋の神隠し』のクライマックスであるとか、『となりのトトロ』の「夢だけどー夢じゃ無かったー」のところなど。これらは、脚本や演出上の要請という面を超えて(もちろんそれはいくらでもあるにはあるが)、アニメーションが飛ぶために飛んでいるかのような印象さえ受ける愉快なシーンである。
それが『風立ちぬ』は、冒頭の夢のシーンをトトロのそれと比較すれば明確なように、飛ぶことの罪とその特権の喪失を正面から描いた作品だったので、公開後に引退の話を聞いたときにも、なるほどなあと思ったものだった。しかし『コナン』を観てみると、その「飛ぶことの罪」のようなことは彼がキャリアの初期から描き続けており、むしろ初期に顕著なモチーフであるということさえわかった。

『コナン』における飛ぶことの描かれ方はオープニング曲前のナレーション部分によくあらわれている。超磁力兵器によって崩壊した地球を脱出しようとするロケットに、隕石?岩の破片のようなものが当たって墜落する場面。このような、飛ぶという行為は人間にとっては越権行為であり、自然や地球によって阻止され罰せられる罪である、ということが『未来少年コナン』の根底に流れる思想である。このモチーフはそのまま作中のクライマックスで、ギガントで脱出しようとするレプカによって丸ごと繰り返される。ファルコン号はまだ謎エネルギーを使っていない分だけ罪の軽い飛行機ではあるものの、そのファルコン号に許された最後の飛行がギガントからインダストリアに戻るときの、動力を使わない滑空であったことなども見逃すべきではない象徴的な出来事である。最終話でラナが飛ぶ感動的な場面にさえ、メカニカルな音を被せてしまうのには少し驚いたが、そのくらい徹底してこのモチーフを提示していると言える。

一方それと対比されるのは、あまりにも素晴らしいオープニング曲のアニメーションで描かれている、大地を踏みしめ海を泳ぐことの喜びである。まさに「こんなに地球が好きだから こんなに夜明けが美しいから」という詞の通り。
コナンの異常な足の裏の筋力は、まさに大地を踏みしめる力そのものであり、1話でのこされ島を飛び立たんとするファルコン号に足の指で掴まる場面から、25話でギガントの翼の上を走るシーンに至るまで一貫して、この大地を踏みしめる力によって飛行する罪深い存在と戦い続けてきたキャラクターと考えられる。
さらに言えば、コナンというキャラクターはのこされ島で生まれた、人間の罪を知らない穢れの無い存在であるという点も指摘しておきたい。このことが彼に大地を踏みしめる力を与えているのであるが、それ以上に彼の行動原理が「地球が好きだから」でしかないということが重要である。
それと対照的なのはラオ博士で、博士は太陽エネルギーの開発に関わった、いわば原罪を背負った存在であり、その罪の償いとしてインダストリアと戦うこととなる。12話でハイハーバーへ向かう船から、ラオ博士が1人で飛行メカに乗ってインダストリアへ戻るシーンに彼の背負った罪と責任が象徴されている。
しかしコナンにはそれが無いにも関わらず「地球が好きだから」動き続けるのだ。その終着点となったギガント墜落のシーンで、その落下によって罰を与えられたギガントとレプカたちとは対照的に、1人脱出機に取り残されて上昇していくコナンの姿は、まるで人類の罪を1人で背負ってしまったかのようで、神聖ささえ感じられるようになっている。

そしてこのような、飛行の罪と大地を踏みしめる神聖さというモチーフは前述のように、初期の宮崎駿作品に特に強くあらわれているということを確認しておきたい。
ナウシカは(特に漫画版)では聖母のようなキャラクターとして描かれており、映画のクライマックスでも彼女はやはり人間を代表してその罪を一身に受けることになる。ナウシカの軽やかな飛行はトルメキア飛行船の鈍重で森を破壊してしまうようなものとは一線を画しているし、何より神を人の手によって作り出すというこれ以上無い越権行為がわかりやすく登場する。コナンでは津波として登場した自然の怒りのようなものは王蟲の殺到として形を変えて繰り返されている。
ラピュタでは主人公の聖性は控えめになる代わりに、飛ぶ=子供の夢 という図式が登場する。飛ぶという行為は美しいものに見えるが、どこかでそれを夢として割り切れないまま大人になってしまうことは罪であり、罰を受けることになる。この辺りは『風立ちぬ』に直接繋がるテーマである。シータとパズーは「バルス」でその夢を割り切って大人になることを選択した。きっと2人は序盤の朝のシークエンスのような慎ましく大地を踏みしめる生活に戻るのだろうというあたりもコナンの繰り返し。エンジンで飛ぶドーラと飛行石で飛ぶムスカではムスカの方が大罪であるという点もコナンを引き継ぎつつ丸くなってきている部分で、飛行機オタクの駿らしい点でもある。
ルパンでさえ宮崎駿の手にかかると聖性を獲得してしまう。ルパンシリーズファンの中には「カリオストロは面白いがルパンじゃない」という層が一定数いるのはまさにそういうところであると思われる。僕自身もコナンを観ていて、コナンがハイハーバーからインダストリアに戻ると言い出した時は正気か?と思った。こういうキャラクターからは、ある種の人間くささみたいなものが消えていってしまうので功罪あるかと思う。ナウシカは姫ねえさまなので問題ありませんが…
しかし宮崎駿もそのことはおそらく理解していて、その上で次第に主人公を「豚」「魔女」「アシタカ」というような元から特権的な何かを持った人物に設定していったのではないか。ちなみに『千と千尋』まで行くと逆にすごく人間らしいキャラクターを描くようになる。宮崎駿のキャリアを大きく分けるなら、初期『コナン』~『ラピュタ』、中期『トトロ』~『もののけ姫』、後期『千尋』以降 というようになるかなあ。当たり前か。新作に期待!
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